テレビ観ないのにテレビのこと書いてすみません
スミレはテレビをたくさんは観ない。また人物をあまり覚えられない。
この本を書いた長谷川という人が動ているところはたぶん見たことがない。
メディアリテラシーという言葉を始めて知ってから、もうずいぶんな時間が経ったように思うが、確かに「テレビの中の大騒ぎ」を観ると、世間さんはテレビに踊らされているように感じる。視聴者は何も変わっていないのだろうか?
しかし、そう感じるようにテレビは作られている。
どれほどの人がテレビを鵜呑みにしているのかというと、テレビをつくっている人たちも視聴者が無条件に信じていると信じすぎているように思う。
スミレの認識では、テレビに出てる人たちは、道端の素人さんも含めてみな芸人さんである。なぜなら明らかに「テレビだから」な言動をしている。近頃は実社会でも、芸人さんのようにテンポよく上手に受け答えできるひとを求めらているように感じる。疲れる社会だ。
テレビを信じている人いるとはあまり思えないが、みんながテレビに加担して架空ワールドをつくっている。みんなテレビが好きなんだろう。
またこの本では、日本が世界の常識を知らないと言っているが、これは当たり前だ。ほとんどの国の人が、自分の国の常識が世界の常識だと思っているはずである。
長谷川さんが言っているように、世界の常識(どこで決まるのかな)をただ流してくれるメディアなんてない。日本の素晴らしさをたたえる番組なら数字(視聴率)がとれるが、日本がこんなに世界から取り残されていると訴える番組は少ないだろう。
世界の常識とやらを知りたければネットや本でいくらでも知ることはできるけれど、現状では知ろうと思う人にしかその門は開かない。だから知らなくて当然だ。その部分は責められない。知っておきたい、知ってほしいとは思えども。
こう考えると、テレビの意味はやはり大きい。テレビに流れていることは多くの人が知っていることがそうでないかの線引きになるということだ。
つまりテレビに流れてないから、日本人は世界の常識を知らないわけなのである。
とは言えスミレはこの本が好きである。なかなか面白く書いてある。
長谷川さんは、「世界だったら犯罪です!」という番組をつくったらいいと思う。
世界の常識が必ずしも良いこととは限らないし、常識に従うのがいいこととも思えないが、人権分野では世界はなんとか良識ある方向へ動いていると思うし、日本もそうあってほしいとスミレも思うからである。
でもたぶん、スミレは観ない。テレビ観ないんで。
次の本いこう。